「南加庭園業連盟」(デレック・古川会長、18組合、会員約1100人)は1日、創立60周年記念式典をモンテベロのクワイエットキャノンで催した。会員やその家族、また日系社会の代表者ら約150人が集まり、連盟の60年間におよぶ歴史を振り返るとともに、戦後、南加日系社会の再建に大きく貢献した庭園業者の功績をたたえた。 かつて最大6千人の会員を抱えた連盟の歴史は、努力、忍耐、高い勤労意欲、思いやり、助け合いにより築き上げられたもので、それら精神は当時の庭園業者だけにとどまらず、後世、また現代の日系社会にも引き継がれている。 式典では、堀之内秀久総領事はじめ、南加日系商工会議所の青木義男会頭、南加県人会協議会の小林正三会長、バンクーバー日系ガーデナーズ協会の金田守央会長がそれぞれ祝辞を述べ、長きにわたる歴史の中で、差別や苦難にめげず乗り越えてきた会員に敬意を示すとともに、アメリカ市民そしてアメリカ社会からの信頼を得て南加日系社会の発展に大きく寄与したことに感謝の言葉を述べた。 特別講演として、「川柳に残るガーデナー風雲録」の著者、関三脚さんが川柳にみた日系庭園業者の歴史を振り返った。関さんは講演の中で、彼らが奉仕で造り上げた日米文化会館の清流園は1981年に全米造園最優秀賞を受賞し、当時のレーガン大統領夫人から表彰状を授与されていることに触れ、「60周年を記念して、清流園に記念碑を残してほしい。一世紀にわたって日系社会に貢献してきた庭園業者の功績を残す記念碑がリトル東京にないのは寂しい」と述べた。また、二世週祭のパレードにも日系社会の代表として先頭に立ってほしいと提案。「日系社会の花が咲くまで(土を)耕してくれたのは庭園業者です。参加の際はぜひ、愛用の芝刈り機を全開にして行進してください」と敬意を込めた。 会場ではまた、同連盟にさまざまな形で貢献したロバート・イワサキさん(昨年他界)、ジョン・カバシマさん、松江久志さん、ナオミ・ヒラハラさん、エドワード・カミヤさん、山中眞知子さん、関さんの7人に特別表彰が贈られた。 式典後、父子二代にわたり会長職に就いた3世の古川会長は、専門職の多様化や会員の高齢化などで連盟の会員数が年々減少を続けている現状に触れ、「今後の連盟のあり方について過去数年間話し合いを続けてきたが、もう行動を起こさなければならない時に来ている」とし、連盟の誇らしい歴史を残し、さらなる地域社会貢献を目的に、基金の立ち上げを考えているとし、実現に向けて行動を起こしていきたいと意気込みを語った。 南加庭園業連盟の歩み 戦前、アップタウン、ハリウッド、ウエストロサンゼルスの庭園業組合が加盟し、南雲正次さんを会長に現在の連盟の前身である南加庭園業組合連盟が創設されたことに始まる。南雲会長は、月刊誌「ガーデナーの友」を出版。戦争勃発前の1941年12月号まで56回発行された。 砂漠に建つマンザナー強制収容所に収容された南雲会長は、「こんな草も木もない砂漠で育っていく子どもたちのことを考えると、物事に喜びを感じない人間になり、自然の美しさが分からない人間になるだろう」と後世を案じ、有志とともに収容所内に日本庭園を造った。 戦時中、他人種の庭園業者を雇った多くの人が、戦後収容所から戻った日系庭園業者を競うように雇ったといわれ、「庭園業者は日系人」といわれるまでにその地位と信頼を築き上げた。しかし、日系人に対する差別がまだ色濃く残る1955年、庭園業を免許制にすることを定めた「マロニー法」(AB1671)がサンフランシスコのトーマス・マロニー下院議員から提案され、英語があまりできない一世にとっては致命的となる事態となった。これを受け西村末治さんが各地に庭園業組合を作り、同年12月15日に15の組合が集まり、1800人の会員で「南加庭園業連盟」を発足した。 マロニー法は廃案となり、その後日本から移民してきた人たちに職を提供し、家庭を築くことができるようになった。その後もユニオン加入問題などで再度危機にさらされるが、連盟に顧問弁護士を置くことで会員を守るなど、会員の結束は強まった。 月刊誌「ガーデナーの友」は56年に日英両語で発行が再開され、57年には福利厚生を図るためグループ医療保険が発足。当時6千人の会員に1人100ドルの寄付を呼びかけ72年に連盟会館が完成すると、会員の活動も盛んになり、サンタバーバラからサンディエゴまで組合数は最大23あったという。 会員らは日米文化会館の清流園の建設、小東京タワーズのランドスケープ、敬老引退者ホームでの庭園清掃、南加日系商工会議所の歳末助け合い運動など、日系社会での奉仕活動にも力を入れ、その献身、助け合い精神は現在にも引き継がれている。 【中村良子、写真も】
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