南加県人会の中で最古の歴史を誇る南加鹿児島県人会(創立1899年、西元美代子会長)は16日、創立115周年を記念した祝賀会をトーレンスのホテルで盛大に催した。
会場には、在ロサンゼルス日本総領事館から鹿児島県出身の新村出領事夫妻をはじめ、日系諸団体の代表者と会員ら計175人が集まり、同会のその長きにわたる歴史と社会貢献を振り返り、さらなる繁栄を祈願した。
西元会長は、「115年間の歴史を一度に思い浮かべることは不可能ですが、(同会を)築き、継続、継承してこられた諸先輩方の努力があり、積み立てられた結晶の贈り物が今日、この日であると思います。時代に添った考えを盛り込みながら、先輩方、私たち、そして今後会を継承してくれるであろう後輩とともに協力し、助け合い、今後のために頑張っていきたい」とあいさつした。また会員に対し、「皆さま一人ひとりが鹿児島県人会の代表です。一緒に目的を考え、皆で一緒に行動しましょう」と協力を呼びかけた。
同会には歴史保存部があり、顧問の宮内武幸さん宅に同会に関する書籍や写真、過去の新聞記事などが大量に保存されている。これをもとに顧問の西タックさんが115年間の同会沿革史をまとめ、この日、参加者にあらためて紹介した。
カリフォルニアにおける鹿児島県人のルーツは、1880年に鹿児島県人の長沢鼎(かなえ)さんがニューヨークから北加ソノマ郡サンタローザに移住し、23歳という若さで2000エーカーのブドウ園を営んだことに始まる。長沢さんはブドウ園で大きな成功を収め、のちに「ブドウ王」と称される。
南加鹿児島県人会は、1895年に北加鹿児島県人会の南加支部として発足後、1899年に南加鹿児島県人会として独立。北加から13人が南加へ移住し、1903年にロサンゼルス・ダウンタウンの6街とメープルに県人会事務所を設けた。1910年には、県人会とは別団体として南加鹿児島婦人会が9人の会員で発足。1914年の桜島大噴火に対しては、義援金を送った。
新年会やピクニック、文学会など活発な活動を続けていたが、第二次世界大戦勃発により1942年に自発的に解散。強制収容所から戻った会員らで1947年、南加鹿児島倶楽部として再発足し、同50年に南加鹿児島県人会へと改称した。
59年には難民移民家族呼び寄せで鹿児島県から1100人の家族が訪米。訪日や訪羅などを通じ日本との関係を密にした。また、渉外部、文化部、余興演劇部、運動部、青年部やジュニア部などを発足し、ゴルフトーナメントやバレーボール大会などを通じ、会員の親睦を図った。
2006年には鹿児島ファンデーションが非営利団体の認可を受け、毎年優秀学生に奨学金を授与。12年からは鹿児島短期研修を行い、学生たちに自身のルーツ探しの機会を提供している。
祝賀会では、88歳以上の23人の会員に対し、高齢者表彰が行われた。出席した8人に1人ずつ西元会長から賞状が渡された。
来賓を代表し、南加県人会協議会の当銘貞夫会長、南加日系商工会議所の青木義男会頭、総領事館の新村領事がそれぞれ祝辞を述べ、同会の115年にわたる歴史、活動をたたえるとともに、日系社会のさらなる活性化のため、今後も互いに協力していきましょうと言葉を寄せた。
2年前に同会初の女性会長に就任した西元さん。羅府新報の取材に対し、「南加県人会最古の会ということで、常に1番に祝賀会を開催しなければならず、プレッシャーはあった。しかし今日、日ごろお世話になっている方々をご招待できてほっとしている」。年々減少する会員対策として「皆にどうしたら楽しんでもらえるか」を常に考えていたという。その一環として、祖父母に連れられてきた孫やひ孫も楽しく過ごせるように、ピクニック会場に子ども用のゲームブースを設置。これが功を奏し、例年100人程度だった参加者が、2年連続で200人を超えた。
また、優秀学生に奨学金を授与していた鹿児島ファンデーションのプログラムを、学生に鹿児島を体験してもらおうと、ホームステイプログラムへと変更。参加学生からは「自身のルーツ探しができた」「日本文化を体験できた」など好評で、今後も続けていきたいと意欲的に話した。
会長就任3年目を迎え、「今までのものを守っていくだけではダメなのが分かった。あいさつでも申し上げたように、会員一人ひとりが県人会であるという自覚を持って協力し合いたい」とし、創立120周年へ向け、「やれるまではやる」と意気込みを語った。
式典の後は有志によるカラオケ、同会のかるかんコーラスによる合唱が披露され、最後は鹿児島おはら節を踊り、幕を閉じた。
【中村良子、写真も】
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